1 1982年~
わたしが生まれたのは見出しの通りの1982年の11月だった。小学校に上がるときは1989年、平成元年。その時わたしは自宅にあった離れの叔父の部屋に【ファミコン】があり、【スーパーマリオブラザーズ】をプレイしていた。それが最も古いゲームプレイの記憶だ。
後からWikipediaで知ったのだが、任天堂のファミリーコンピューターの発売は1983年7月。今の時代では考えられないことだが、その頃はまだテレビゲーム(これも死語になってきてるな・・)という得体のしれない新興メディアに対して世の良識のある大人たちはまだまだ見極めさなかの時期であり、2023年現在のAIの扱いのようにそこに乗るべきか乗らざるべきかのハムレット的心境だったと思う。
一つ言っておくと今も昔も大人たちは自分の築き上げたものを守ることに必死で、牙城を崩しそうになるものには必死で抵抗するということだ。(大人だって常に怖いのだ)
外で遊び、夕方まで真っ黒になって虫や魚やボールを追い、笑いながら遊んできて健全なる大人へと育った自分たちにとって、ブラウン管のチラつく画面の中、巨大な亀が火を拭き、宇宙船が弾を打ち、松明を持ち暗い洞窟の中のドラゴンを無表情でもくもくと倒すというサイケとしか言いようのない世界を突き進む子供たちの扱いが難しかったのだろうと思う。
この行為は子供たちには悪影響ではないだろうか?こんなことをしているより勉強や外で遊ばせなければ将来は道を踏み外すのではないのだろうか?という涙が出るほどありがたい愛情に溢れた家庭が下す結論はゲームの禁止という当然の帰結だった。もちろんスマホもなければゲーセンは不良のたまり場、自分の部屋にテレビがあるなど極めてレアケースな昭和から平成初期の時代の話である。
家庭により禁止は何パターンかがあり、学校の課題を片付けたら解禁、父親のテレビ観戦が始まるまでの間まで解禁、土日のみ解禁、友だちが来たときのみ解禁などなど。あとは全面解禁という天国のような家庭もあれば当然、全面禁止もある。
わたしの家は限りなく後者に近かった。
ファミコンを禁止するのは簡単だっただろう。父親から弟である叔父に「触らせるな」と言えば良いだけである。そもそも叔父は結婚のためわたしが小学2年かそこらには家を出ていた。(もちろんファミコンを持ってだ)
厄介なのは1989年、当時の子供達のマストとも言えるアイテムが登場してしまった。ファミコンで国内のシェアをほぼ独占してしまった任天堂の打つ次なる一手。
わたしは当時単身赴任だった父親の目を盗み、お年玉をため、親戚の大学生のお兄さんに頼み、なんとか手に入れてもらった記憶がある。
ソフトは【魔界塔士Sa・Ga】を希望していたが、品薄で手に入らず【アレイウェイ】と【スーパーマリオランド】に落ち着いた。
プレイには単3電池4本が必要で、当時の金額では600円程度だったと思う。ソフトがおおよそ3000円、電池がなくても遊べるアダプターや単3を充電して使える充電器と専用のニッカド電池などもあった。
こちらも現在の電池を使ってプレイするべきか、小遣いを3ヶ月我慢してアダプターを買うか、それとも新しいソフトを買うか、しかし手持ちのソフトをプレイするのを止められるか、という当時の小学生にとっては悶え、苦しむ選択の時期を与えた罪深いハード。
そう【ゲームボーイ】である。
こちらであれば外へ追い出されてもゲームができる。家出やお泊りのときも常に持ち歩ける画期的な進化したゲームの恩恵を受けれる。
そう思っていたが、やはり父親の管理をくぐり抜けることは難しかった。父親からの指令を受けた祖母がゲームボーイを管理することとなった。
鍵付きのタンスにゲームボーイは閉じ込められた。
しかし、そこは小学生のゲームへと対する熱量が力をくれた。暇があれば祖母の部屋を物色し、着物や虫よけの匂いの中で鍵を見つけ救出した。祖母はわたしに対してはとても優しく、母親代わりだったため目を盗み、宿題もそこそこにゲームをやることに対し堪らなく罪悪感があった。その欲求を止められない自分に対し情けなく、腹もたった。
ここまでがわたしのゲームに対する根源である。
これが40になる今まで引きずるとは思いもよらなかった。
ゲームという極限まで熱中できる世界への感謝。同じ時代に生まれ生きてきた文化に対するリスペクト。周囲の大人全てが悪しきものだと言っていた事を行う裏切りと罪悪感。好きなものを押さえられて不自由を受けた苦しみと反動。ゲームなど、やってもなにも生み出せないという感情と、しかしどの人間だってそこまで文化的で創造的ではないだろうという思い。
やはりゲームに対しては愛憎半ばといったところである。
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